何かが出現する時

 

何かが出現する時、

それが自分でも他人でも

現実でも虚構でもいい

誰が撮っても誰が書いてもいい

今のナマの現実よりも

そこに立ち合えること

何かが出来上がる瞬間

それを目撃することに

感動することが多くなった

大原樹雄

 

知人の写真展へ行ったので、ふと40年以前に見た雑誌のことを想い出した。 大森大道が「光と影」という連載をやっていて、毎号彼がのたうちながら思考し、写真を撮っているのが愉快だった。

感動できることは幸せだ。

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運筆

知り合いの絵具屋さんで、岩絵具の相談をした時に、参考として明治時代の画家の色紙を見せてもらった。

岩絵具でかなり厚く盛り上げて、運筆をしている。さらにその部分に、先の尖った物で削り描きをしている。巧いなぁと感心する。

しかしこの作品は、時間をかけて構図や段取り、運筆法を練らないとできないものだ。それを色紙に描いているとなると、高くは売れない。数を描いたのだろうか。

運筆による作品は、筆数が少ないので一見簡単に見えるが、トータルで考えると、実はかなり時間がかかる。水墨画の手本や北斎漫画の例も有り、お手本をまねすると、誰にでも絵が描けるように考えるのだが、そうは行かない。

まして、オリジナルの運筆をその度に考えて行くとなると、簡単ではない。畢竟、類似のパターンに逃げ込みたくなる。それに今ではそれ理解する人がいないので、技術としても価値がない。

竹内栖鳳が、学校での運筆の教授を中止したのには、いろいろの理由のあってのことだろうと思える。しかし筆を使って絵を描いていると、どうしてもこの問題に立ち至る。

無意識を創り直す

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私たちの無意識には、本人も気付かないうちに、多くのものが刷り込まれている。

これにより、意識しないで物事に対応できるので、無駄なエネエルギーを使わずに済み、日常生活をスムーズに過すことができる。しかし、この事で物事には正確に反応することはできなくなる。

現代社会では、このことが科学的に応用されて、さまざまな情報がコントロールされて、人々の意識下に送り込まれている。

人間存在に組み込まれた本能でも、環境に合わなくてアレルギーを起こしたり、さまざまな病気を産むことがあるように、こうした無意識の行動が日常社会の病となることもある。

これを避けるために、無意識の状態での感覚を磨くことが大切になる。

感覚を信じられる様になると、無意識と意識が明確になり、判断を下すことの助けとなる。

日本の芸術は、この感覚を磨くことに注力してきた。

無意識を創り直すことが、稽古の目的である。

池大雅 天衣無縫の旅の画家 展

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池大雅 天衣無縫の旅の画家  国立京都博物館 ~2018.05.20

海外で大規模な大雅の展示会が開かれているというのに、なぜ本国では放置されたままでいるのかと思っていたのだが、やっと85年ぶりの大規模な展覧会が京都博物館で実現した。

    確かに、大雅は扱うのが難しいとは思う。大量の作品と彼が成した様々な試み、そして美術史的な意味、影響、周辺環境などなどと考えて行くと、恐ろしいものになる。

    今回の京都博物館の展示には感謝する。

    長谷川等伯や伊藤若冲の展示の時を思い出し、さぞや沢山の人達が京博へ押しかけているだろうと、朝一番で駆けつけたが、拍子抜けするくらいに閑散としている。鑑賞する者としてはありがたいが、この状況は病巣ではないかと心配になる。

    先に書いたように、大雅は巨大な山脈なので、簡単に述べることができない。展示もかなり工夫をして、その多方面からの視点を提供している。それでも162点にものぼる作品を2時間半かけて見終わって感じるのは、彼の描く「迷遠法」による山水画の世界に迷い込んでいるかのようなものだ。

    しかし、迷い込んだこの山中は気持ちのよい場所で、それが彼の絵の魅力となり、多くの人が彼を愛し敬ってきたところの物だとわかる。そして、考えて見るとそのような画家が他には居ないのだ。

私も遅きを厭わず、反省をして、これからも務めようと考えるのだった。

    

   見たことのない沢山の大雅の実作品を目にして、彼の全体像に見当が付けられたのは有難い。図版を見ても、その本当の姿を類推することができるので、これからゆっくりと分析をすることができる。またこの展示会で、思いもしない数々のヒントを得ることができて、私は近年にない幸せに浸っている。

そして私が確信しているのは、この巨大な山脈はまだまだ活動をしていて、止まっていないということだ。未知の世界を抱えているのだ。