禅画

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禅の坊主は無字や円相をかくのが好きだ。しかし、どうもその内実は怪しいこけ脅しが多いのではないかと疑っている。無闇に描かないほうが良いと思っている。

とはいいながら、実はその表現されたものが、どれ程のものか測れないという類の書画もあって、それはどうもこちらの至らなさが原因かと思えるのだった。それが先日、加藤耕山老師の達磨図をみていて、思うことがあり、有名な白隠の無字や円相を画集で確認してみた。そこには二人の明らかな禅風の違いがあるのだが、違いの生まれる元の場所があることに気付かされた。転換点があるのだ。

無字や円相は、本来この転換点を表現しているのだが、それは表現として不可能なものだ。従って姿を表すのは、そこを通過した後のものでなければならない。

 

通過した後に何かを言えば、それはその人そのものであるはずだ。それが、おかしなものであるとすれば、通過をする前の姿だということになる。通過していない者が、無字や円相をかくとなれば、詐称をしていることになる。水墨は描く者の姿が表れる表現だとは、心しておいたほうが良い。

 

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