日常

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神楽坂での個展を終えて一週間ほどが経ち(https://youtu.be/ZNsyXNNyJ1U)、その間のどこかで「日常」という言葉が浮かんできて、それを考え続けている。

ギャラリーは表通りに面していたのだが、明治時代の建物で、窓の外の樹が葉を茂らせて外界を遮断していたからだろうか。あるいはウィルスの流行するこんな時節で、来訪者が限られ、おのずからフィルターが働いていたためだろうか。

会期中の会場に流れていた空気は、今までにない物だった。それを「日常」と呼んではみたが、それが何者かが未だに分からないのだった。

美術評論の自縛

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 ちらりと目を通した新聞のコラムに、評論低迷の原因を、対象とすべき事が書き尽くされたからとして、重箱の隅をつつくようなものしきりできなくなったとあった。
門外漢から見ていると、自分で枠域を限定して何も残っていないと嘆いているように見える。
新しい文章表現が認められる、良い時節となっているように思えるのだが、確かに容易ではない。
しかし、もう次の書き手がしっかりと用意をして待っている事だろう。それは今の延長にはなく、しかし人類史を踏まえているはずだ。

復元 芳文先生 筆 

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水茎堂さんの復元筆シリーズ「芳文先生」を試す。羊毛主体の運筆筆。長くも短くもなく、正統的な形。個人的には少し太味を感じるが、その分含みが良くて肥痩の線が自由に引け、表現力は増す。

画家としては、つい筆に極端な形を求めて表現の変化としたり、己の技の助けとするのだが、これだけまともで表現力の有る筆を前にすると、己の拙さを恥じる。

あまりにも気持ちの良い筆なので、つい電話をして感想を述べたのだが、使われている材料が良いものなのだと知らされた。粘るようにこちらの意志のままについてくる感覚は、やはり材料によるところも有るのだろう。正直なものだなぁと話し合った。

こうした筆を使ってみて、また新たに菊池芳文の絵などを見てみると、違ったものになるだろうとは想像がつく。ありがたい体験となった。

村上華岳の落款

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華岳の落款の押し方を確かめたくなって、画集を開いた。

彼の師の栖鳳はかなり構成的で見事な置き方をするが、華岳は画面の端近くに接して置いている記憶があって、あれはどんな思考なのかと気になったのだ。

落款によって絵が生きたり死んだりするので、署名と落款の位置に気を使うのは当たり前だ。そのためには一般的な約束事は無視される事もある。これも当然の成り行きだ。

晩年の華岳の絵は小さいので、それに比較して彼の印は大きいと言える。中には二つ押してある作品もある。それなのに、画面の端ぎりぎりにに押してある。小さな印にして、もう少し中に押しても良いはずだ。

没年の作品には署名と落款をせずに終わった物があり、それは波光が代わって押しているという。それらの署名のない落款だけの作品を見ると、波光は華岳の流儀を尊重しているように見えるのだが、やはり少し内側に押してある。それが正当だろう。

実は華岳の印が気になって確認するのは今回が初めてではない。自分で印を押す時に、迷うと不思議と華岳の印の位置が気にかかるのだ。栖鳳の間を詰めた、見事な置き方を見ようとは思わない。

おそらく、答えを探しているのではなくて、納得をしようとしているのだろう。自分の感覚を信じる事に。