個性

五嶋みどりのバッハ「無伴奏パルティータとソナタ」を偶然耳にした。彼女の演奏にはあまり興味がなかったので、ただ聞き流していたのだが、途中で音が素晴らしいことに気がついた。素人の私にはその原因はわからない。しかしこんな音を鳴らす人だったのかと驚いた。

 

彼女が変わったのか、私が変わったのかが分からないので、古い録音を聞いてみると、やはり演奏が変化している。しかしそれは昔から持っていた特質を進化させたものだった。今まで彼女のバイオリンをオーケストラのバックで聴いていたので、それが分からなかったのだ。ソロになることで、その特質が私にも明解に聞き取れたのだ。

 

私は、こうした行き方での完成があったのかと目を開かされる思いがした。彼女は自分の特質を捉えて、しっかりとその個性を進化させている。芸術が個性を確立するために存在するものだと、改めて気付かされると同時に、彼女のそれがいかに難しい作業であったかを思った。

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禅画

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禅の坊主は無字や円相をかくのが好きだ。しかし、どうもその内実は怪しいこけ脅しが多いのではないかと疑っている。無闇に描かないほうが良いと思っている。

とはいいながら、実はその表現されたものが、どれ程のものか測れないという類の書画もあって、それはどうもこちらの至らなさが原因かと思えるのだった。それが先日、加藤耕山老師の達磨図をみていて、思うことがあり、有名な白隠の無字や円相を画集で確認してみた。そこには二人の明らかな禅風の違いがあるのだが、違いの生まれる元の場所があることに気付かされた。転換点があるのだ。

無字や円相は、本来この転換点を表現しているのだが、それは表現として不可能なものだ。従って姿を表すのは、そこを通過した後のものでなければならない。

 

通過した後に何かを言えば、それはその人そのものであるはずだ。それが、おかしなものであるとすれば、通過をする前の姿だということになる。通過していない者が、無字や円相をかくとなれば、詐称をしていることになる。水墨は描く者の姿が表れる表現だとは、心しておいたほうが良い。

 

耕山老師の50回忌

加藤耕山老師の50回忌に合わせて、遺作の書画を並べるというので、嫁はんと五日市の徳雲院まで出かけた。私は毎年命日近くには墓参をしているのだが、一緒に行くのは初めてだった

その説法は、言われた時には意味が分からず、ずっと正体を捉えることができずに、ただただ謎だった老師ではあったが、最近になって少し分かってくるとこが出てきた。

帰宅した夜に、そんな話を嫁はんにしていると、彼女は「それは、こういう意味でしょう?」とあっさりと老師の言葉を解いてみせるのだった。

恐るべし、嫁はん。

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「海人」を観て

千駄ヶ谷の能楽堂で『海人』を観る。この演目はダイナミックな構成のためか、人気があるようだ。しかし、私はどうもいつも途中で眠くなってしまい、ほとんどの時間を夢うつつで過ごすのを常としている。

これはこれで良いものだと思って、その夜も会場の椅子に座っていた。

 

ところが今回の友枝明世のシテは、亡き母の幽体が良くて、「・・波の底に沈みけり 立つ波の下に入りにけり・・・」と前シテが退場するまで目が離せなかった。いつもは聞き流すこの言葉にも、現実味があって凄みを感じた。

もっとも、私はその後スーと眠りに入って、気がつくと龍女になった後シテが立っていた。しかし意識を戻さないことにして、夢うつつでこの舞を楽しんだ。

 

千駄ヶ谷から奥多摩の奥にある我が家までの道のりは遠い。

帰りの電車の中で、正法眼蔵の『光明』の章を眺めていた。「地獄道・餓鬼道・畜生道・人間道・天に光明がある。これらの諸世界がどのようであるかを、一切は光明である他はないと説いてる」とあった。

舞台の上に五色の光明が現れるのを眺めていたのか、私が五色の光明だったのだろうかと思いながら、山の湖畔にある凍りついた家に辿り着いた。

2020.01.19

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