松澤宥展

 

 松澤宥展を見に、長野県立美術館まで出かけた。松澤はリアルタイムに知っていたが、全体像が掴めていなかったので、今回の企画展示はありがたかった。日本のコンセプチュアルアートの作家として、美術史的に記憶される作家だと思う。

 ただし今回の企画を通して見えた全体像からすると、私としてはその中身が有効には思えない。それは恐らく彼の覚悟の浅さに起因するのだろう。私にはそうした芸術は評価できない。

時間のある水墨画

 二、三ヶ月前に描いた絵だが、画室の壁が狭くて全体をよく見ることができなかった。先日会場へ置いてみて、やっと検証することができた。

 この大きさの水墨画は初めてで、今回はパルプを加工したロール紙に描いた。勿論、紙の反応は鈍く、墨の線も発色も冴えなくて表現の幅は狭ばまる。 

 紙が違うということは、絵画の本質的な問題に関わることに改めて直面した。描いている最中にはその対応で追われ、細かく考えることもなかったが、こうして終わった作品を検討してみると、やっていたことの意味がわかり、さらにその新たな可能性も感じることができる。

 私は、主に宣紙という敏感で表現力のある紙を主体に使ってきたのだが、それは自分を顕にするためで、これは私が水墨画を自己存在を刹那の物として考えているからだ。

 ところがそれとは別に、もう一つ自己同一化した意識という物もあり、これが時間という概念と繋がって人間の文化を作り上げている。どちらが正しいということはないのだが、そうしたものに対応する絵画という物もあって、そちらからすると、描いたり塗ったりを重ねることが必要になる。

 こうした絵画にも間が働くとしたら、どういった物になるのか試してみたくなった。

美術評論の自縛

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 ちらりと目を通した新聞のコラムに、評論低迷の原因を、対象とすべき事が書き尽くされたからとして、重箱の隅をつつくようなものしきりできなくなったとあった。
門外漢から見ていると、自分で枠域を限定して何も残っていないと嘆いているように見える。
新しい文章表現が認められる、良い時節となっているように思えるのだが、確かに容易ではない。
しかし、もう次の書き手がしっかりと用意をして待っている事だろう。それは今の延長にはなく、しかし人類史を踏まえているはずだ。

『足跡』展 たましん美術館 

たましん美術館の開館企画Ⅲ『足跡』展。私はAct.3での展示になる。奥多摩へ転居したばかりの頃の幻想風な作品と、昨年描いた水墨画が並ぶ。

この美術館が地域に果たす役割は、丁寧な地域への見守りの姿勢にあると思う。現在は公立の美術館にもこうした視点が失われていて、貴重な存在になっている。

 

ましん美術館「足跡」2021ポスター2