禅画

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禅の坊主は無字や円相をかくのが好きだ。しかし、どうもその内実は怪しいこけ脅しが多いのではないかと疑っている。無闇に描かないほうが良いと思っている。

とはいいながら、実はその表現されたものが、どれ程のものか測れないという類の書画もあって、それはどうもこちらの至らなさが原因かと思えるのだった。それが先日、加藤耕山老師の達磨図をみていて、思うことがあり、有名な白隠の無字や円相を画集で確認してみた。そこには二人の明らかな禅風の違いがあるのだが、違いの生まれる元の場所があることに気付かされた。転換点があるのだ。

無字や円相は、本来この転換点を表現しているのだが、それは表現として不可能なものだ。従って姿を表すのは、そこを通過した後のものでなければならない。

 

通過した後に何かを言えば、それはその人そのものであるはずだ。それが、おかしなものであるとすれば、通過をする前の姿だということになる。通過していない者が、無字や円相をかくとなれば、詐称をしていることになる。水墨は描く者の姿が表れる表現だとは、心しておいたほうが良い。

 

迷う

水墨画は、描く人の状態がそのままに現れるので、自分が身につけた長所には、当たり前すぎて無自覚なことが多い。

時々以前に描いた絵と見比べたり、他人の言葉を聞いて、自分の良さを意識することは大切だ。

反対に、自分のできないことや嫌な部分は強く自覚されやすい。しかしその原因は案外と単純ではない。

間違った方向へ進むと、迷い続ける事になる。やってもやっても上手く行かない。それでも描き続けていると、ある時フッと問題が解決されて、成就されている。万策尽きた時になって、やっと正しい答えが見えてくるのだ。

永遠に愚かだと観念する。

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水墨画と仕舞い

仕舞の動画を見ていて気が付いたことがある。

能の本舞台は、金糸銀糸に色鮮やかな衣装を身に纒い、笛太鼓に謡の面々を揃えた絢爛豪華なものである。

しかしながらその骨格は、直面に袴姿で舞う、仕舞いにある。

水墨画といわゆる琳派の関係もこれに似ている。

岡倉天心が言うように、俵屋宗達は水墨画ができることにより、偉大な彩色画家であるのだ。

 

 

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ポピー