画家の語る日本美術史4 池大雅と白隠慧鶴

 水墨画を描くことを志してから、この二人の仕事の意味が分かるのに何十年もかかってしまったというのが、偽らざるを得ない所です。そして、この一連の動画を作る動機となっています。

 大雅は自由ですがすがしい気持ちにさせる絵を描いて、多くの人に愛され、尊敬されてきた画家ですが、その仕事の分析はなかなか難しい物です。それは、世界の美術史の中でも、表現論的な意味での画期的ことを成し遂げているからです。

四条円山派的な筆

左から五雲先生愛玩 秀、秀運筆、玉堂先生清玩、書畫自在大、書畫自在小

       

      

     

    

 水茎堂さんから送ってもらった筆を試していた。四条円山派的な羊毛筆である、西村五雲と川合玉堂に関連付けられる筆が面白かった。

 使ってみると、なるほど彼らがあのような表現になったわけが分かる。それとも、あのような表現を求めてこのような筆を作ったのだろうか。どちらが先かはわからないが、そうはっきりとした物では無く、双方の要素が互いに関連して辿り着いた結果なのかもしれない。

 この筆を使うと、あの時代の形式が強く出てしまいかねないので、それを避けて扱うのが難しくはあるが、表現力はあるので、使いこなして新しい表現をしてみたくなる。

 私は羊毛系では如水を好きで使っているが、此等の筆よりは素直だ。写真の書畫自在はそれよりもかなり素直で、逆に面白みが無くなるとも言える。

 

 

復元 芳文先生 筆 

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水茎堂さんの復元筆シリーズ「芳文先生」を試す。羊毛主体の運筆筆。長くも短くもなく、正統的な形。個人的には少し太味を感じるが、その分含みが良くて肥痩の線が自由に引け、表現力は増す。

画家としては、つい筆に極端な形を求めて表現の変化としたり、己の技の助けとするのだが、これだけまともで表現力の有る筆を前にすると、己の拙さを恥じる。

あまりにも気持ちの良い筆なので、つい電話をして感想を述べたのだが、使われている材料が良いものなのだと知らされた。粘るようにこちらの意志のままについてくる感覚は、やはり材料によるところも有るのだろう。正直なものだなぁと話し合った。

こうした筆を使ってみて、また新たに菊池芳文の絵などを見てみると、違ったものになるだろうとは想像がつく。ありがたい体験となった。

禅画

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禅の坊主は無字や円相をかくのが好きだ。しかし、どうもその内実は怪しいこけ脅しが多いのではないかと疑っている。無闇に描かないほうが良いと思っている。

とはいいながら、実はその表現されたものが、どれ程のものか測れないという類の書画もあって、それはどうもこちらの至らなさが原因かと思えるのだった。それが先日、加藤耕山老師の達磨図をみていて、思うことがあり、有名な白隠の無字や円相を画集で確認してみた。そこには二人の明らかな禅風の違いがあるのだが、違いの生まれる元の場所があることに気付かされた。転換点があるのだ。

無字や円相は、本来この転換点を表現しているのだが、それは表現として不可能なものだ。従って姿を表すのは、そこを通過した後のものでなければならない。

 

通過した後に何かを言えば、それはその人そのものであるはずだ。それが、おかしなものであるとすれば、通過をする前の姿だということになる。通過していない者が、無字や円相をかくとなれば、詐称をしていることになる。水墨は描く者の姿が表れる表現だとは、心しておいたほうが良い。

 

迷う

水墨画は、描く人の状態がそのままに現れるので、自分が身につけた長所には、当たり前すぎて無自覚なことが多い。

時々以前に描いた絵と見比べたり、他人の言葉を聞いて、自分の良さを意識することは大切だ。

反対に、自分のできないことや嫌な部分は強く自覚されやすい。しかしその原因は案外と単純ではない。

間違った方向へ進むと、迷い続ける事になる。やってもやっても上手く行かない。それでも描き続けていると、ある時フッと問題が解決されて、成就されている。万策尽きた時になって、やっと正しい答えが見えてくるのだ。

永遠に愚かだと観念する。

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