運筆

知り合いの絵具屋さんで、岩絵具の相談をした時に、参考として明治時代の画家の色紙を見せてもらった。

岩絵具でかなり厚く盛り上げて、運筆をしている。さらにその部分に、先の尖った物で削り描きをしている。巧いなぁと感心する。

しかしこの作品は、時間をかけて構図や段取り、運筆法を練らないとできないものだ。それを色紙に描いているとなると、高くは売れない。数を描いたのだろうか。

運筆による作品は、筆数が少ないので一見簡単に見えるが、トータルで考えると、実はかなり時間がかかる。水墨画の手本や北斎漫画の例も有り、お手本をまねすると、誰にでも絵が描けるように考えるのだが、そうは行かない。

まして、オリジナルの運筆をその度に考えて行くとなると、簡単ではない。畢竟、類似のパターンに逃げ込みたくなる。それに今ではそれ理解する人がいないので、技術としても価値がない。

竹内栖鳳が、学校での運筆の教授を中止したのには、いろいろの理由のあってのことだろうと思える。しかし筆を使って絵を描いていると、どうしてもこの問題に立ち至る。

無意識を創り直す

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私たちの無意識には、本人も気付かないうちに、多くのものが刷り込まれている。

これにより、意識しないで物事に対応できるので、無駄なエネエルギーを使わずに済み、日常生活をスムーズに過すことができる。しかし、この事で物事には正確に反応することはできなくなる。

現代社会では、このことが科学的に応用されて、さまざまな情報がコントロールされて、人々の意識下に送り込まれている。

人間存在に組み込まれた本能でも、環境に合わなくてアレルギーを起こしたり、さまざまな病気を産むことがあるように、こうした無意識の行動が日常社会の病となることもある。

これを避けるために、無意識の状態での感覚を磨くことが大切になる。

感覚を信じられる様になると、無意識と意識が明確になり、判断を下すことの助けとなる。

日本の芸術は、この感覚を磨くことに注力してきた。

無意識を創り直すことが、稽古の目的である。

日本の芸術観

 水墨画教室の会報に載せた文章です。一般には出ないものなので、ここに載せます。

 

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日本の芸術観が外国とは違うことに気がついて、『笈の小文』の前文を読みかえしてみた。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり (中略)ただこの一筋に繋がる」とは、芭蕉が信じる芸術の系譜だろうが、なにが同じと考えているのか、これだけでは判らない。高校生の時に読んだ私は、単に有名人の名前を挙げて、同族としての自己宣伝をしていると感じて罵倒した覚えがある。

    「造化にしたがひて四時を友とする。」宇宙存在と時間を問題にしていると考えられる。自然と四季を友として、といった文字づらの解釈ではもの足りない。すでに『野ざらし紀行』を経ているのだ。

    「夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかえれとなり。」とは芸術を通して、人として生きるとの宣言だろうが、最後の二句は簡単ではない。その証明を芭蕉は行わなければならない。

こうして読み直してみると、私が信じている芸術論は、江戸時代初期には確立しているようだ。私がこの一筋に繋がっているのかどうかは別にして、この芸術論を世界の普遍としたい。