山元春挙、川端龍子の筆

水茎堂さんから届いていた筆を試す時間がなくて、レポートが遅くなってしまった。

左から、

「一徹清玩春挙先生用筆 大」「一徹清玩春挙先生用筆 小」

「龍子先生用筆」

個人的には春挙に寄せて作られた筆が好み。私は基本的には岸派と羊毛の如水を主に使っているのだが、赤山馬を使用したこの筆は、山馬や夏毛(鹿)とも違った独特の味があって気持ちが良かった。
山元春挙は名前は知っているが、その絵を思い出すことが出来ずにネットで検索して思い出した。成程この筆を好んだ訳が分かる。とはいえ、春挙にこだわる必要はない、高性能な筆だ。

比べると「龍子先生用筆」は柔らかく、もう少し柔軟に形を取るのに便利というべきだろうか。彼の絵からすると納得は出来る。

このように、作家に合わせた筆が作られていた時代というのは、なんと贅沢な時代だったのだろう。贅沢さの意味が違ったのだろう。

postmodernと「間」

2022.04 奥多摩町立せせらぎの里美術館

 

 現在、奥多摩町のせせらぎの里美術館で行われている展覧会は、副題として「ポストモダンと「間」」と題されている(2022.5月29日まで)。展示では詳しく述べていないので、この副題について思うところを書いてみようと思う。

 ポストモダン(近代以後)というからには、近代とは何かと考えなければならない。それは神権・王権を否定して人権を唱え、その根拠として合理性(例えば論理科学)を当てたことにあると考える。

 これにより人類が大きな物質的な富を手にしたことは確かだろう。だがそれによる弊害や矛盾が生まれ、第1次世界大戦により人々はそれを強く認識した。この頃からポストモダンが意識される。

 

 しかしポストモダンは言うに易く、行うに難しだ。人権と論理的合理主義に代わる価値観とそれを保証する機構や技術が機能しなければならない。近代は弊害を抱えながらも、第二次世界大戦をも越えて生き延びて来た。

 とはいえ科学技術が発達したことにより、人類の行いは地球の自然を壊滅的に破壊し続け、その生存環境をも危うくするに至っている。覇権を争っている場合ではない。

 

 ポストモダンの時代には、世界は意識が作り出した仮想のものだと理解したうえで、共通の社会を生きることになると考えられる。一つの価値観に固着しない「間」(動的平衡)は、変革の時代に広く必要な感覚だ。そうした時代に至っている。

Postmodernism and “Ma”

Jiro Unno

The current exhibition at the Seseraginosato Art Museum in Okutama is subtitled “Postmodern and ‘Ma'” (until May 29, 2022). Since the exhibition does not go into detail, I would like to  elaborate what I think about this subtitle.
 
The term “postmodern” means that we have to consider what modernity is. I believe that it is the rejection of divine and royal authority, the advocacy of human rights, and the application of rationality (e.g., logical science) as the basis for these rights.
 
It is certain that mankind has gained great material wealth as a result of this. However, it also brought about adverse effects and contradictions, and the First World War made people keenly aware of these. It was around this time that people became aware of the postmodern era.
 
 
However, postmodernism is easier said than done. Values that replace human rights and logical rationalism, and the mechanisms and technologies that guarantee them, must function. Modernity has survived beyond the Second World War, despite its detrimental effects.

 
Nevertheless, with the development of science and technology, mankind’s actions have continued to devastate the earth’s natural environment, endangering its very survival. This is no time to be fighting for supremacy.
 
 
In the postmodern era, we are expected to live in a common society based on the understanding that the world is a virtual one created by our consciousness. A sense of “MA” (dynamic equilibrium) that does not adhere to a single set of values is widely needed in this age of change. We have reached such an era.

(translated by Sam Shikama)

松澤宥展

 

 松澤宥展を見に、長野県立美術館まで出かけた。松澤はリアルタイムに知っていたが、全体像が掴めていなかったので、今回の企画展示はありがたかった。日本のコンセプチュアルアートの作家として、美術史的に記憶される作家だと思う。

 ただし今回の企画を通して見えた全体像からすると、私としてはその中身が有効には思えない。それは恐らく彼の覚悟の浅さに起因するのだろう。私にはそうした芸術は評価できない。

時間のある水墨画

 二、三ヶ月前に描いた絵だが、画室の壁が狭くて全体をよく見ることができなかった。先日会場へ置いてみて、やっと検証することができた。

 この大きさの水墨画は初めてで、今回はパルプを加工したロール紙に描いた。勿論、紙の反応は鈍く、墨の線も発色も冴えなくて表現の幅は狭ばまる。 

 紙が違うということは、絵画の本質的な問題に関わることに改めて直面した。描いている最中にはその対応で追われ、細かく考えることもなかったが、こうして終わった作品を検討してみると、やっていたことの意味がわかり、さらにその新たな可能性も感じることができる。

 私は、主に宣紙という敏感で表現力のある紙を主体に使ってきたのだが、それは自分を顕にするためで、これは私が水墨画を自己存在を刹那の物として考えているからだ。

 ところがそれとは別に、もう一つ自己同一化した意識という物もあり、これが時間という概念と繋がって人間の文化を作り上げている。どちらが正しいということはないのだが、そうしたものに対応する絵画という物もあって、そちらからすると、描いたり塗ったりを重ねることが必要になる。

 こうした絵画にも間が働くとしたら、どういった物になるのか試してみたくなった。

画家の語る日本美術史4 池大雅と白隠慧鶴

 水墨画を描くことを志してから、この二人の仕事の意味が分かるのに何十年もかかってしまったというのが、偽らざるを得ない所です。そして、この一連の動画を作る動機となっています。

 大雅は自由ですがすがしい気持ちにさせる絵を描いて、多くの人に愛され、尊敬されてきた画家ですが、その仕事の分析はなかなか難しい物です。それは、世界の美術史の中でも、表現論的な意味での画期的ことを成し遂げているからです。