時間のある水墨画

 二、三ヶ月前に描いた絵だが、画室の壁が狭くて全体をよく見ることができなかった。先日会場へ置いてみて、やっと検証することができた。

 この大きさの水墨画は初めてで、今回はパルプを加工したロール紙に描いた。勿論、紙の反応は鈍く、墨の線も発色も冴えなくて表現の幅は狭ばまる。 

 紙が違うということは、絵画の本質的な問題に関わることに改めて直面した。描いている最中にはその対応で追われ、細かく考えることもなかったが、こうして終わった作品を検討してみると、やっていたことの意味がわかり、さらにその新たな可能性も感じることができる。

 私は、主に宣紙という敏感で表現力のある紙を主体に使ってきたのだが、それは自分を顕にするためで、これは私が水墨画を自己存在を刹那の物として考えているからだ。

 ところがそれとは別に、もう一つ自己同一化した意識という物もあり、これが時間という概念と繋がって人間の文化を作り上げている。どちらが正しいということはないのだが、そうしたものに対応する絵画という物もあって、そちらからすると、描いたり塗ったりを重ねることが必要になる。

 こうした絵画にも間が働くとしたら、どういった物になるのか試してみたくなった。

画家の語る日本美術史4 池大雅と白隠慧鶴

 水墨画を描くことを志してから、この二人の仕事の意味が分かるのに何十年もかかってしまったというのが、偽らざるを得ない所です。そして、この一連の動画を作る動機となっています。

 大雅は自由ですがすがしい気持ちにさせる絵を描いて、多くの人に愛され、尊敬されてきた画家ですが、その仕事の分析はなかなか難しい物です。それは、世界の美術史の中でも、表現論的な意味での画期的ことを成し遂げているからです。

復元 芳文先生 筆 

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水茎堂さんの復元筆シリーズ「芳文先生」を試す。羊毛主体の運筆筆。長くも短くもなく、正統的な形。個人的には少し太味を感じるが、その分含みが良くて肥痩の線が自由に引け、表現力は増す。

画家としては、つい筆に極端な形を求めて表現の変化としたり、己の技の助けとするのだが、これだけまともで表現力の有る筆を前にすると、己の拙さを恥じる。

あまりにも気持ちの良い筆なので、つい電話をして感想を述べたのだが、使われている材料が良いものなのだと知らされた。粘るようにこちらの意志のままについてくる感覚は、やはり材料によるところも有るのだろう。正直なものだなぁと話し合った。

こうした筆を使ってみて、また新たに菊池芳文の絵などを見てみると、違ったものになるだろうとは想像がつく。ありがたい体験となった。

村上華岳の落款

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華岳の落款の押し方を確かめたくなって、画集を開いた。

彼の師の栖鳳はかなり構成的で見事な置き方をするが、華岳は画面の端近くに接して置いている記憶があって、あれはどんな思考なのかと気になったのだ。

落款によって絵が生きたり死んだりするので、署名と落款の位置に気を使うのは当たり前だ。そのためには一般的な約束事は無視される事もある。これも当然の成り行きだ。

晩年の華岳の絵は小さいので、それに比較して彼の印は大きいと言える。中には二つ押してある作品もある。それなのに、画面の端ぎりぎりにに押してある。小さな印にして、もう少し中に押しても良いはずだ。

没年の作品には署名と落款をせずに終わった物があり、それは波光が代わって押しているという。それらの署名のない落款だけの作品を見ると、波光は華岳の流儀を尊重しているように見えるのだが、やはり少し内側に押してある。それが正当だろう。

実は華岳の印が気になって確認するのは今回が初めてではない。自分で印を押す時に、迷うと不思議と華岳の印の位置が気にかかるのだ。栖鳳の間を詰めた、見事な置き方を見ようとは思わない。

おそらく、答えを探しているのではなくて、納得をしようとしているのだろう。自分の感覚を信じる事に。

 

ピーター・ドイグ展

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国立近代美術館「ピータ・ドイグ展」

美術展へ出かけるのは、ほんとうに久しぶりだ。10ヶ月?

以前だったらあり得ないことなのだが、無理をしてまで見たいと思う展示もなかった。最近の美術館に出かける気がしなくなっているのも確かだ。ゆっくり見るという楽しみが無くなってきていて、アトラクションにでも付き合っている気分になる。

 

ドイグの展示予告を見たときに、「イギリスで画家の中の画家と言われている」という一文があり、興味を持った。図版だけでは分からないが、これを批評してマーケットにのせるシステムと国に興味を持った。とてもそんな絵とは思えないのだが、実物はどうなんだろう。もしかしたら、思ったより面白いかもしれないと期待もした。

 

美術館も新型コロナ対策で予約制をとっているが、それほどに混むとは思えないので、普通に出かけた。案の定客は少なかった。

ビデオ画像から引用したと思われる絵画。過去の有名作家を思わせるテクニック。いろいろの方法が試みられているので、それが「画家の中の画家」ということらしいが、あいにく面白いとは思えなかった。絵の横の解説は数行読んで止めた。うるさい。勝手に見させてくれと思った。見ているだけで面白くないようなら、自分とは縁がないのだ。

 

批評家には良い素材かもしれないとは思った。何十億円で売れたとかは投資の問題だ。もうそういう時代は終わったなぁと、感慨深かった。