覚悟

最近、寺田透の本を読んでいる。彼は1915年に生まれて、1995年に亡くなっている。私の父より少し若く、母よりも年長だ。

大学生の頃、美術や文芸の評論を幾つか読んだ覚えがある。正統なことを言っているのだが、難渋で読むのに疲労したのを覚えている。途中からは避けていた。

再読をするきっかけになったのは、石井恭二の現代語訳「正法眼蔵」の注に引用されていた、禅の「偈」という詩型についての言及だった。この一文を書いた寺田と引用した石井の間に、ただならぬ空気を感じたからだ。

あらためて「絵画の周辺」を読み、彼の美術批評の凄さに驚いた。私が密かに紡いでいた日本美術史の解釈について、すでにいくつもの点を抑えて指摘しているのだった。これは画家でないとわからない視点と思っていただけに唸った。なぜ彼だけが気づいたのだろう。

寺田は自分の評論の姿勢を書いている。絵画であろうと文芸であろうと、自分の存在を脅かすもの(作品)に拮抗する業だというのだ。したがって彼の文章は、論理を真っ直ぐに並べるようなことにはならない。身体の伴った思考のうねりが常に同居していて、いささかの偽りも許されないという姿勢がある。解らないところはそれを述べて、言い直すこともたびたびだ。それが晦渋の気味を醸し出す。そのことで、誰もが見えなかったものを見て、指摘する。並の評論家だったら、それらを己の手柄とするだろう。しかし、そのことに留意している気配がない。なぜだろう。

私はいま、寺田の「道元の言語宇宙」を少しずつ読んでいる。この本の一部は岩波書店の公開講座で語られたものだ。聴衆は戦争を経験してきた同じ世代の人たちだろう。寺田は「眼蔵」を坐禅する人の思惟であると断言して、自分とは分離しながらもそれを読み解こうとする。ここにあるのは何だろうか。

私には、一つ答えを導き出すことを求めていたとは思えない。存在のために、自分の目で見て感じ、考えることの覚悟をした人たちが居たのだと思う。

今日は八月の十五日だ。覚悟を忘れないでいよう。

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8月の風景

個性

五嶋みどりのバッハ「無伴奏パルティータとソナタ」を偶然耳にした。彼女の演奏にはあまり興味がなかったので、ただ聞き流していたのだが、途中で音が素晴らしいことに気がついた。素人の私にはその原因はわからない。しかしこんな音を鳴らす人だったのかと驚いた。

 

彼女が変わったのか、私が変わったのかが分からないので、古い録音を聞いてみると、やはり演奏が変化している。しかしそれは昔から持っていた特質を進化させたものだった。今まで彼女のバイオリンをオーケストラのバックで聴いていたので、それが分からなかったのだ。ソロになることで、その特質が私にも明解に聞き取れたのだ。

 

私は、こうした行き方での完成があったのかと目を開かされる思いがした。彼女は自分の特質を捉えて、しっかりとその個性を進化させている。芸術が個性を確立するために存在するものだと、改めて気付かされると同時に、彼女のそれがいかに難しい作業であったかを思った。

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「アンフォルム」 を読む

「アンフォルム」イヴ=アラン・ポワ+ロザリンド・E・クラウス著 を読む。もう、10年ほど前に翻訳出版されたもので、元はポンピドゥセンターの企画展示カタログだという。

    私は現代美術を見る機会はあまり多くない。この本も、水墨画の潑墨とアンフォルムの違いを確かめようと、読んでみたのだった。

    それが、現代美術の解説書として、今までに経験したことないほど愉快だった。

    バタイユを軸にして、近代絵画から説き起こし、現代美術を語っている。ブルトン、フロイトは分かるとしてヘーゲルにマルクスまで出てきて、思わず頬が緩むのは、個人的な感情かもしれないが、これだけ大きく構えての話なので面白い。

     しかしポンピドゥセンターは大したものだと感心した。日本の状況はよく知らないが、この翻訳が出ただけでも、希望はあるのかもしれない。

 

 

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寺田透「繪画とその周邊」を読む

石井恭二の本を読んでいたら、寺田透の文章が引用してあり、興味深く読んだ。とても繊細に物事を感じて、考えている人だと思った。「繪画とその周邊」を発注する。

「僕は偈(仏典などで、韻文の形をとる表現形式 #海野注)といふものを、有るえり抜きの状況において、散文的段取りによらずして意味をつたへる、といふより意味そのものとして炸裂する非常に強大なエネルギーをもった非論理的言語表現といふふうに思っゐるが、このエネルギーを一挙に感じとり、自分のものとするようにあらかじめできてゐる人間でない限り、偈の意味を、その真の現実性において受けとることはできないと考える。分かるには分かるという程度の受けとり方しかできず、偈の語らんとするところは仮説の状態でかろうじてひとり念頭に宿り得るに留まるのである。」

これは偈についての文章だが、美術についても言えることに思える。

氏はさらに批判的に文章を続ける。

「非常に高い独自なものをその狭小な頂点において持っている日本の文化が、その底辺においては無定形な、雑駁な、醜悪、卑猥な様相を呈してゐることの原因も、この辺りにいくぶんかありはしなかろうか。」

良いところを突いている。しかし、では他に解決策があるのかどうかは分からない。分からないところに、芸術が発動するのだとは思う。

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運筆

知り合いの絵具屋さんで、岩絵具の相談をした時に、参考として明治時代の画家の色紙を見せてもらった。

岩絵具でかなり厚く盛り上げて、運筆をしている。さらにその部分に、先の尖った物で削り描きをしている。巧いなぁと感心する。

しかしこの作品は、時間をかけて構図や段取り、運筆法を練らないとできないものだ。それを色紙に描いているとなると、高くは売れない。数を描いたのだろうか。

運筆による作品は、筆数が少ないので一見簡単に見えるが、トータルで考えると、実はかなり時間がかかる。水墨画の手本や北斎漫画の例も有り、お手本をまねすると、誰にでも絵が描けるように考えるのだが、そうは行かない。

まして、オリジナルの運筆をその度に考えて行くとなると、簡単ではない。畢竟、類似のパターンに逃げ込みたくなる。それに今ではそれ理解する人がいないので、技術としても価値がない。

竹内栖鳳が、学校での運筆の教授を中止したのには、いろいろの理由のあってのことだろうと思える。しかし筆を使って絵を描いていると、どうしてもこの問題に立ち至る。