日本芸術のポストモダン性

  日本の芸術が持っているポストモダン性について書いてみたい。

  ポストモダンという言葉が言われるようになってから久しくなっているが、この頃になってその姿が顕になり、現実となってきているからだ。

  モダン(近代)とは神の死んだ時代であり、人間が主人公となり、論理を拠り所にするようになった時代のことだ。このことの限界は、第1次世界大戦による効率的な殺人によって明確に意識されるようになった。芸術運動としてのダダイズムはこうした背景から生まれたと考えられる。それゆえにダダイズムがポストモダン芸術だとも言えるが、次の時代の有り様を示し得ていないことから、未だモダンの範疇にある。それ以後の現代美術も、人間主義と概念に頼り続けているのならば、それは近代の末期に当たる。

   私がポストモダンを口にするのは、新しい観点に立つ芸術がいよいよ求められるからだ。それはコンピューターの発達により、仮想現実の世界が現実の世界と拮抗してきたことにある。この現実世界が仮想であるとは紀元前の昔から言われてきたことではあるが、それが人類の多数に認められるまでにはなっていなかった。それがテクノロジーの発達による仮想現実世界が、今までの現実世界と見分けのつかなくなるまでに進歩して、広く人類にこの事実が突きつけられることになった。

  こうした時代を迎えて、人間と社会の関係に大きな変動とそれに伴う混乱が生まれてきている。ポストモダンとは近代社会が単純に変化するのではなく、世界が一変することだ。新しい世界の在り方を理解できずに、それにより共感が失われれば、人は自己本位になったり自暴自棄となったりする。これが現代のシステムとテクノロジーと結びつけば、考えもつかない犯罪や厄災を招くことになる。これは法律や処罰で止められる物では無い。

  

  今この現実世界もまた仮想の世界である事実を認めなければ、人類は存続できないだろう。人間主義も概念の絶対性も仮想の物だという認識の元に、創造が行われるのが、ポストモダンの時代なのだ。そんな世界を想像できるだろうか。

  日本の芸術は、それを巡っての歴史だったとも言える。

  

  例えば自死を選んだ千利休。彼は、日本を統一した権力者によってかけられた嫌疑に謝罪すれば、切腹を免れただろう。しかしそれでは彼の世界は破壊されて、権力者の世界だけが認められることになる。彼はそれが自分の絶対的な死であるばかりでは無く、先達や指導した弟子たちの死でもあると考えて、謝罪を拒否したのだろう。彼の高弟だった山上宗二や吉田織部の処刑や切腹もそれと同じ文脈で考えられる。これは権力と芸術が野合関係にあったことで起きたことではあるが、当人たちが、世界が一つでは無いと自覚的だったからこそ起きたことだといえる。

   後に連歌師の芭蕉は、自分の系譜に西行などの歌人とならんで、利休や雪舟を挙げている。

  

  これらの日本の芸術家は、この世界の仮想性をふまえながら、人間として生きる技としての芸術を探求していた。この考え方は、いわゆる純粋芸術に留まらず、工芸や剣術などあらゆる身体業にまで拡張してゆき、広く日本人の芸術観を育んだ。

  日本は明治革命により西洋近代を積極的に学び、後にアメリカとの戦争による敗戦を体験することで、独自の思考を殆ど失っている。しかし未だ僅かにその伝統を保持している。その芸術論は貴重な遺産だ。世界を見渡せば、こうした芸術が他にも存在していることに気が付くだろう。

  

  ポストモダンの時代が来ている。その時、人間として生きる技=芸術が必需となる。私が水墨画に求めてきたのは、こうした身体技としての芸術だ。

ポストモダンの水墨画とは

 新年明けましておめでとうございます。
 歳の初めに、自分の考える水墨画について明確にしておこうと思っていたのだが、書くのに時間がかかってしまった。

 私の想う水墨画は「芸術とは人間として自由に生きるための技術」という定義に基づく。その視点で美術史を組み立てていて、そこから水墨画が生まれてくると考えているのだ。

 近代の終焉は幾度も叫ばれながらも、その度に生き延びて現代に至っている。多くの人が、人間の欲望と定理を基準とした哲学に代わる、新しい時代の哲学を受け入れることは簡単ではないだろう。しかしそういっている間に、世界は取り返しのつかない様相を示しつつある。そんな時代の芸術とは、自己の自由に頼るものとなる。

 翻って考えてみると、そうした芸術は、こうした時代の変換期に幾度も生まれてきた。水墨画の歴史は、そのように解釈される物の一つだろう。

 世界を自分の目で見ることにより、自分が見え、自己を脱した自由となる。近代の終わる時、この技術は一部の者にだけではなく、多くの人に求められることになる。それゆえに、私は自分が描くだけではなく、求める人にもこの術を教えることを重視している。私が考えるポストモダンの芸術とは、このような物だ。

山元春挙、川端龍子の筆

水茎堂さんから届いていた筆を試す時間がなくて、レポートが遅くなってしまった。

左から、

「一徹清玩春挙先生用筆 大」「一徹清玩春挙先生用筆 小」

「龍子先生用筆」

個人的には春挙に寄せて作られた筆が好み。私は基本的には岸派と羊毛の如水を主に使っているのだが、赤山馬を使用したこの筆は、山馬や夏毛(鹿)とも違った独特の味があって気持ちが良かった。
山元春挙は名前は知っているが、その絵を思い出すことが出来ずにネットで検索して思い出した。成程この筆を好んだ訳が分かる。とはいえ、春挙にこだわる必要はない、高性能な筆だ。

比べると「龍子先生用筆」は柔らかく、もう少し柔軟に形を取るのに便利というべきだろうか。彼の絵からすると納得は出来る。

このように、作家に合わせた筆が作られていた時代というのは、なんと贅沢な時代だったのだろう。贅沢さの意味が違ったのだろう。

postmodernと「間」

2022.04 奥多摩町立せせらぎの里美術館

 

 現在、奥多摩町のせせらぎの里美術館で行われている展覧会は、副題として「ポストモダンと「間」」と題されている(2022.5月29日まで)。展示では詳しく述べていないので、この副題について思うところを書いてみようと思う。

 ポストモダン(近代以後)というからには、近代とは何かと考えなければならない。それは神権・王権を否定して人権を唱え、その根拠として合理性(例えば論理科学)を当てたことにあると考える。

 これにより人類が大きな物質的な富を手にしたことは確かだろう。だがそれによる弊害や矛盾が生まれ、第1次世界大戦により人々はそれを強く認識した。この頃からポストモダンが意識される。

 

 しかしポストモダンは言うに易く、行うに難しだ。人権と論理的合理主義に代わる価値観とそれを保証する機構や技術が機能しなければならない。近代は弊害を抱えながらも、第二次世界大戦をも越えて生き延びて来た。

 とはいえ科学技術が発達したことにより、人類の行いは地球の自然を壊滅的に破壊し続け、その生存環境をも危うくするに至っている。覇権を争っている場合ではない。

 

 ポストモダンの時代には、世界は意識が作り出した仮想のものだと理解したうえで、共通の社会を生きることになると考えられる。一つの価値観に固着しない「間」(動的平衡)は、変革の時代に広く必要な感覚だ。そうした時代に至っている。

Postmodernism and “Ma”

Jiro Unno

The current exhibition at the Seseraginosato Art Museum in Okutama is subtitled “Postmodern and ‘Ma'” (until May 29, 2022). Since the exhibition does not go into detail, I would like to  elaborate what I think about this subtitle.
 
The term “postmodern” means that we have to consider what modernity is. I believe that it is the rejection of divine and royal authority, the advocacy of human rights, and the application of rationality (e.g., logical science) as the basis for these rights.
 
It is certain that mankind has gained great material wealth as a result of this. However, it also brought about adverse effects and contradictions, and the First World War made people keenly aware of these. It was around this time that people became aware of the postmodern era.
 
 
However, postmodernism is easier said than done. Values that replace human rights and logical rationalism, and the mechanisms and technologies that guarantee them, must function. Modernity has survived beyond the Second World War, despite its detrimental effects.

 
Nevertheless, with the development of science and technology, mankind’s actions have continued to devastate the earth’s natural environment, endangering its very survival. This is no time to be fighting for supremacy.
 
 
In the postmodern era, we are expected to live in a common society based on the understanding that the world is a virtual one created by our consciousness. A sense of “MA” (dynamic equilibrium) that does not adhere to a single set of values is widely needed in this age of change. We have reached such an era.

(translated by Sam Shikama)

松澤宥展

 

 松澤宥展を見に、長野県立美術館まで出かけた。松澤はリアルタイムに知っていたが、全体像が掴めていなかったので、今回の企画展示はありがたかった。日本のコンセプチュアルアートの作家として、美術史的に記憶される作家だと思う。

 ただし今回の企画を通して見えた全体像からすると、私としてはその中身が有効には思えない。それは恐らく彼の覚悟の浅さに起因するのだろう。私にはそうした芸術は評価できない。