加藤耕山老師の50回忌に合わせて、遺作の書画を並べるというので、嫁はんと五日市の徳雲院まで出かけた。私は毎年命日近くには墓参をしているのだが、一緒に行くのは初めてだった
その説法は、言われた時には意味が分からず、ずっと正体を捉えることができずに、ただただ謎だった老師ではあったが、最近になって少し分かってくるとこが出てきた。
帰宅した夜に、そんな話を嫁はんにしていると、彼女は「それは、こういう意味でしょう?」とあっさりと老師の言葉を解いてみせるのだった。
恐るべし、嫁はん。
曇庵放言 山住みの画家の妄想的あれこれ
加藤耕山老師の50回忌に合わせて、遺作の書画を並べるというので、嫁はんと五日市の徳雲院まで出かけた。私は毎年命日近くには墓参をしているのだが、一緒に行くのは初めてだった
その説法は、言われた時には意味が分からず、ずっと正体を捉えることができずに、ただただ謎だった老師ではあったが、最近になって少し分かってくるとこが出てきた。
帰宅した夜に、そんな話を嫁はんにしていると、彼女は「それは、こういう意味でしょう?」とあっさりと老師の言葉を解いてみせるのだった。
恐るべし、嫁はん。
千駄ヶ谷の能楽堂で『海人』を観る。この演目はダイナミックな構成のためか、人気があるようだ。しかし、私はどうもいつも途中で眠くなってしまい、ほとんどの時間を夢うつつで過ごすのを常としている。
これはこれで良いものだと思って、その夜も会場の椅子に座っていた。
ところが今回の友枝明世のシテは、亡き母の幽体が良くて、「・・波の底に沈みけり 立つ波の下に入りにけり・・・」と前シテが退場するまで目が離せなかった。いつもは聞き流すこの言葉にも、現実味があって凄みを感じた。
もっとも、私はその後スーと眠りに入って、気がつくと龍女になった後シテが立っていた。しかし意識を戻さないことにして、夢うつつでこの舞を楽しんだ。
千駄ヶ谷から奥多摩の奥にある我が家までの道のりは遠い。
帰りの電車の中で、正法眼蔵の『光明』の章を眺めていた。「地獄道・餓鬼道・畜生道・人間道・天に光明がある。これらの諸世界がどのようであるかを、一切は光明である他はないと説いてる」とあった。
舞台の上に五色の光明が現れるのを眺めていたのか、私が五色の光明だったのだろうかと思いながら、山の湖畔にある凍りついた家に辿り着いた。
2020.01.19
三味線の雪
ラジオを聴いていたら、 若い一中節の家元が、雪の描写を演奏していた。それで子供の頃に母や祖母、叔母などに連れられて、歌舞伎見物に行ったのを思い出した。
劇中のあれやこれやのことがあって、この三味線が奏でられると、登場人物の一人が「おや、雪が降りだしたねー」と言って話を切る。その時に人間存在が宇宙という空間の中で相対化され、悲劇が救われるのだった。子供心にあの三味線の「間」は深く心に刻まれていたのだが、その訳を今になって理解した。
意識で意識を排除すると意識になるので、意志で排除しようと試みてる。無意識になると自動機械になるので、これも違う。
試みながら、これが初めから自分のやりたかったことだと分かってくる。しかし、それが分かるのに半世紀かと思うと愕然とする。とは言いながら、それが、ほんの昨日のことだということも分かる。
試みが成功しているのか、失敗しているのか、今のところ検証する方法を知らない。
水墨画は、描く人の状態がそのままに現れるので、自分が身につけた長所には、当たり前すぎて無自覚なことが多い。
時々以前に描いた絵と見比べたり、他人の言葉を聞いて、自分の良さを意識することは大切だ。
反対に、自分のできないことや嫌な部分は強く自覚されやすい。しかしその原因は案外と単純ではない。
間違った方向へ進むと、迷い続ける事になる。やってもやっても上手く行かない。それでも描き続けていると、ある時フッと問題が解決されて、成就されている。万策尽きた時になって、やっと正しい答えが見えてくるのだ。
永遠に愚かだと観念する。