ピーター・ドイグ展

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国立近代美術館「ピータ・ドイグ展」

美術展へ出かけるのは、ほんとうに久しぶりだ。10ヶ月?

以前だったらあり得ないことなのだが、無理をしてまで見たいと思う展示もなかった。最近の美術館に出かける気がしなくなっているのも確かだ。ゆっくり見るという楽しみが無くなってきていて、アトラクションにでも付き合っている気分になる。

 

ドイグの展示予告を見たときに、「イギリスで画家の中の画家と言われている」という一文があり、興味を持った。図版だけでは分からないが、これを批評してマーケットにのせるシステムと国に興味を持った。とてもそんな絵とは思えないのだが、実物はどうなんだろう。もしかしたら、思ったより面白いかもしれないと期待もした。

 

美術館も新型コロナ対策で予約制をとっているが、それほどに混むとは思えないので、普通に出かけた。案の定客は少なかった。

ビデオ画像から引用したと思われる絵画。過去の有名作家を思わせるテクニック。いろいろの方法が試みられているので、それが「画家の中の画家」ということらしいが、あいにく面白いとは思えなかった。絵の横の解説は数行読んで止めた。うるさい。勝手に見させてくれと思った。見ているだけで面白くないようなら、自分とは縁がないのだ。

 

批評家には良い素材かもしれないとは思った。何十億円で売れたとかは投資の問題だ。もうそういう時代は終わったなぁと、感慨深かった。

三味線の雪

三味線の雪

 ラジオを聴いていたら、 若い一中節の家元が、雪の描写を演奏していた。それで子供の頃に母や祖母、叔母などに連れられて、歌舞伎見物に行ったのを思い出した。

 劇中のあれやこれやのことがあって、この三味線が奏でられると、登場人物の一人が「おや、雪が降りだしたねー」と言って話を切る。その時に人間存在が宇宙という空間の中で相対化され、悲劇が救われるのだった。子供心にあの三味線の「間」は深く心に刻まれていたのだが、その訳を今になって理解した。

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「100年の編み手たち 」 東京都現代美術館

東京都現代美術館が改装になって良くなったという評判を聞いて、のこのこでかけてみた。

「100年の編み手たち」と題して、この百年間、その時々の「現代」をリードした人に焦点を当てながら作品を選んで展示している。所蔵品から選んでいるらしく、仕方ない事ではあろうが、企画意図を満たすにはほど遠い展示だった。そして、この所蔵品の質量に薄ら寒さを感じてしまった。

東京都現代美術館という名前を頂いているのに、この規模の建物とコレクションしきり持たないということに愕然とする。世界の情勢からはほど遠い。

購入予算が少ないと推察できるが、つまりは行政や議会が社会の展望を創る意志の無いことを示している。木場の現代美術館のありようそのものが一番の現代美術だった。

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池大雅 天衣無縫の旅の画家 展

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池大雅 天衣無縫の旅の画家  国立京都博物館 ~2018.05.20

海外で大規模な大雅の展示会が開かれているというのに、なぜ本国では放置されたままでいるのかと思っていたのだが、やっと85年ぶりの大規模な展覧会が京都博物館で実現した。

    確かに、大雅は扱うのが難しいとは思う。大量の作品と彼が成した様々な試み、そして美術史的な意味、影響、周辺環境などなどと考えて行くと、恐ろしいものになる。

    今回の京都博物館の展示には感謝する。

    長谷川等伯や伊藤若冲の展示の時を思い出し、さぞや沢山の人達が京博へ押しかけているだろうと、朝一番で駆けつけたが、拍子抜けするくらいに閑散としている。鑑賞する者としてはありがたいが、この状況は病巣ではないかと心配になる。

    先に書いたように、大雅は巨大な山脈なので、簡単に述べることができない。展示もかなり工夫をして、その多方面からの視点を提供している。それでも162点にものぼる作品を2時間半かけて見終わって感じるのは、彼の描く「迷遠法」による山水画の世界に迷い込んでいるかのようなものだ。

    しかし、迷い込んだこの山中は気持ちのよい場所で、それが彼の絵の魅力となり、多くの人が彼を愛し敬ってきたところの物だとわかる。そして、考えて見るとそのような画家が他には居ないのだ。

私も遅きを厭わず、反省をして、これからも務めようと考えるのだった。

    

   見たことのない沢山の大雅の実作品を目にして、彼の全体像に見当が付けられたのは有難い。図版を見ても、その本当の姿を類推することができるので、これからゆっくりと分析をすることができる。またこの展示会で、思いもしない数々のヒントを得ることができて、私は近年にない幸せに浸っている。

そして私が確信しているのは、この巨大な山脈はまだまだ活動をしていて、止まっていないということだ。未知の世界を抱えているのだ。