恐れても逃げるな

 この数年、毎年亡くなった老師の命日には、墓参をしてから、道場で少し座ることにしている。別棟でこの日にあわせて遺墨が並べられているのも楽しみの一つだ。

 書画を眺めながら、毎年違った物を感じるのだが、今年は特に今までと違ったものを感じた。それが何故なのか二、三日考えていた。

 それは軸に書かれた書が読めずに、筆の運びを辿ったことに始まっていた。その文字は墨の丸い塊としきり見えなかったが、よくよく目を凝らすと、筆の運びが読み取れて、文字と認識できた。その続きで、他の書や絵も筆の動きを読みながら過ごすことになる。文字記号や絵図としてではなく、線として見たのだ。80歳代と90歳代での筆線には明らかな違いがある。

 この見方は特別なことではなく、だれもが書画に向かうとき自然にとる姿勢だ。

 何が特別だったかと言えば、私が今までそのような目で、老師の書画を見なかったことにある。その原因を探ると、恐れだったのだと気がつく。逃げていたのだ。甘えていたのだ。何から逃げていたのかは分かっている。

 改めて亡き老師と会えた気がした。

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