恐れても逃げるな

 この数年、毎年亡くなった老師の命日には、墓参をしてから、道場で少し座ることにしている。別棟でこの日にあわせて遺墨が並べられているのも楽しみの一つだ。

 書画を眺めながら、毎年違った物を感じるのだが、今年は特に今までと違ったものを感じた。それが何故なのか二、三日考えていた。

 それは軸に書かれた書が読めずに、筆の運びを辿ったことに始まっていた。その文字は墨の丸い塊としきり見えなかったが、よくよく目を凝らすと、筆の運びが読み取れて、文字と認識できた。その続きで、他の書や絵も筆の動きを読みながら過ごすことになる。文字記号や絵図としてではなく、線として見たのだ。80歳代と90歳代での筆線には明らかな違いがある。

 この見方は特別なことではなく、だれもが書画に向かうとき自然にとる姿勢だ。

 何が特別だったかと言えば、私が今までそのような目で、老師の書画を見なかったことにある。その原因を探ると、恐れだったのだと気がつく。逃げていたのだ。甘えていたのだ。何から逃げていたのかは分かっている。

 改めて亡き老師と会えた気がした。

ポストモダンの水墨画とは

 新年明けましておめでとうございます。
 歳の初めに、自分の考える水墨画について明確にしておこうと思っていたのだが、書くのに時間がかかってしまった。

 私の想う水墨画は「芸術とは人間として自由に生きるための技術」という定義に基づく。その視点で美術史を組み立てていて、そこから水墨画が生まれてくると考えているのだ。

 近代の終焉は幾度も叫ばれながらも、その度に生き延びて現代に至っている。多くの人が、人間の欲望と定理を基準とした哲学に代わる、新しい時代の哲学を受け入れることは簡単ではないだろう。しかしそういっている間に、世界は取り返しのつかない様相を示しつつある。そんな時代の芸術とは、自己の自由に頼るものとなる。

 翻って考えてみると、そうした芸術は、こうした時代の変換期に幾度も生まれてきた。水墨画の歴史は、そのように解釈される物の一つだろう。

 世界を自分の目で見ることにより、自分が見え、自己を脱した自由となる。近代の終わる時、この技術は一部の者にだけではなく、多くの人に求められることになる。それゆえに、私は自分が描くだけではなく、求める人にもこの術を教えることを重視している。私が考えるポストモダンの芸術とは、このような物だ。