50年後の三十棒

一週間ほど前、耕山老師の命日に徳雲院へ出かけた。いつものように墓参をして、少し道場で座る。その後で、並べてある遺墨を拝見させて頂く。

 私は老師の生前に警策を拒否した。それが精いっぱいだった。今もその時の老師の姿を覚えているし、幾度となくそのことを残念に思っている。しかし、仕方のないことだった。

 今回、槐安禅窟で「三十棒」と書かれた書と出会って、あの時の棒をやっと受けることができた。慈悲とは三十棒だったのだ。

有り難いことに水墨というのは畫いた者の在りようが如実に現れる。私は、50年以上も前に別れた老師と今も会話ができるのだ。

Unno Jiro  SUIBOKU Exhibition

人間ってなんだ

開催日時:2023年11月24日(金)〜26日(日)11:00〜18:00
会場: co-lab-canvas Villart
東京都杉並区和田 3-11-2
東京メトロ「東高円寺駅」より徒歩 10 分 (タクシー¥700)

特別企画:
1)画家の感性であなたを描きます
2)ギャラリートークとminiパーティー 24日(金)17:00より
要予約費¥2,500円  e-mail: info@unnojiro.com 海野   

 

夜明け

空が少し白み始めた頃に
帯を直しながら台所へよたよたと辿り着くと
二匹のアカネズミが待っていた。

年取った方が口を切る
 そろそろ負債を払って頂く時期になりました
 分かっているでしょうが
つづいて若いのが、帳面をいちいち読み上げ始めたので
この状態では無理だと分かるだろうと、二匹を遮った。

長い沈黙の後で
 猶予が無いのは分かっているはずです
 心掛け次第です
そう言って、二匹は引き上げて行った。

いつまでも呆けていられないので
立ち上がって、蛇口の水を掬って飲んでいると
まだ暗い湖の対岸から、銃声が届く。
さらに一発。

夜は明けたらしい。

日本芸術のポストモダン性

  日本の芸術が持っているポストモダン性について書いてみたい。

  ポストモダンという言葉が言われるようになってから久しくなっているが、この頃になってその姿が顕になり、現実となってきているからだ。

  モダン(近代)とは神の死んだ時代であり、人間が主人公となり、論理を拠り所にするようになった時代のことだ。このことの限界は、第1次世界大戦による効率的な殺人によって明確に意識されるようになった。芸術運動としてのダダイズムはこうした背景から生まれたと考えられる。それゆえにダダイズムがポストモダン芸術だとも言えるが、次の時代の有り様を示し得ていないことから、未だモダンの範疇にある。それ以後の現代美術も、人間主義と概念に頼り続けているのならば、それは近代の末期に当たる。

   私がポストモダンを口にするのは、新しい観点に立つ芸術がいよいよ求められるからだ。それはコンピューターの発達により、仮想現実の世界が現実の世界と拮抗してきたことにある。この現実世界が仮想であるとは紀元前の昔から言われてきたことではあるが、それが人類の多数に認められるまでにはなっていなかった。それがテクノロジーの発達による仮想現実世界が、今までの現実世界と見分けのつかなくなるまでに進歩して、広く人類にこの事実が突きつけられることになった。

  こうした時代を迎えて、人間と社会の関係に大きな変動とそれに伴う混乱が生まれてきている。ポストモダンとは近代社会が単純に変化するのではなく、世界が一変することだ。新しい世界の在り方を理解できずに、それにより共感が失われれば、人は自己本位になったり自暴自棄となったりする。これが現代のシステムとテクノロジーと結びつけば、考えもつかない犯罪や厄災を招くことになる。これは法律や処罰で止められる物では無い。

  

  今この現実世界もまた仮想の世界である事実を認めなければ、人類は存続できないだろう。人間主義も概念の絶対性も仮想の物だという認識の元に、創造が行われるのが、ポストモダンの時代なのだ。そんな世界を想像できるだろうか。

  日本の芸術は、それを巡っての歴史だったとも言える。

  

  例えば自死を選んだ千利休。彼は、日本を統一した権力者によってかけられた嫌疑に謝罪すれば、切腹を免れただろう。しかしそれでは彼の世界は破壊されて、権力者の世界だけが認められることになる。彼はそれが自分の絶対的な死であるばかりでは無く、先達や指導した弟子たちの死でもあると考えて、謝罪を拒否したのだろう。彼の高弟だった山上宗二や吉田織部の処刑や切腹もそれと同じ文脈で考えられる。これは権力と芸術が野合関係にあったことで起きたことではあるが、当人たちが、世界が一つでは無いと自覚的だったからこそ起きたことだといえる。

   後に連歌師の芭蕉は、自分の系譜に西行などの歌人とならんで、利休や雪舟を挙げている。

  

  これらの日本の芸術家は、この世界の仮想性をふまえながら、人間として生きる技としての芸術を探求していた。この考え方は、いわゆる純粋芸術に留まらず、工芸や剣術などあらゆる身体業にまで拡張してゆき、広く日本人の芸術観を育んだ。

  日本は明治革命により西洋近代を積極的に学び、後にアメリカとの戦争による敗戦を体験することで、独自の思考を殆ど失っている。しかし未だ僅かにその伝統を保持している。その芸術論は貴重な遺産だ。世界を見渡せば、こうした芸術が他にも存在していることに気が付くだろう。

  

  ポストモダンの時代が来ている。その時、人間として生きる技=芸術が必需となる。私が水墨画に求めてきたのは、こうした身体技としての芸術だ。

恐れても逃げるな

 この数年、毎年亡くなった老師の命日には、墓参をしてから、道場で少し座ることにしている。別棟でこの日にあわせて遺墨が並べられているのも楽しみの一つだ。

 書画を眺めながら、毎年違った物を感じるのだが、今年は特に今までと違ったものを感じた。それが何故なのか二、三日考えていた。

 それは軸に書かれた書が読めずに、筆の運びを辿ったことに始まっていた。その文字は墨の丸い塊としきり見えなかったが、よくよく目を凝らすと、筆の運びが読み取れて、文字と認識できた。その続きで、他の書や絵も筆の動きを読みながら過ごすことになる。文字記号や絵図としてではなく、線として見たのだ。80歳代と90歳代での筆線には明らかな違いがある。

 この見方は特別なことではなく、だれもが書画に向かうとき自然にとる姿勢だ。

 何が特別だったかと言えば、私が今までそのような目で、老師の書画を見なかったことにある。その原因を探ると、恐れだったのだと気がつく。逃げていたのだ。甘えていたのだ。何から逃げていたのかは分かっている。

 改めて亡き老師と会えた気がした。